LOGIN復讐が終わっても、提出期限は終わらなかった。
「第二王子殿下の差異整理表、期限内に届きました」
朝一番、ロザリーがそう報告した。
リディアは、雨音基金の新しい申請書から顔を上げる。
「本当ですか」
「本人署名です」
「代筆では?」
「筆跡照合済みです」
「補佐官が机の横で急かした可能性は?」
「ダリオ補佐官の添付書によれば、終了一刻前に提出されたとのことです」
「余裕がありますね」
「前回は四半刻前でした」
「改善しています」
セオが向かいの机から顔を出した。
「殿下が期限を二回続けて守っただけで、監査局全体が妙に感動していますね」
「当然を学び直している途中ですから」
第84話 悪女監査官の新しい帳簿 復讐が終わっても、提出期限は終わらなかった。「第二王子殿下の差異整理表、期限内に届きました」 朝一番、ロザリーがそう報告した。 リディアは、雨音基金の新しい申請書から顔を上げる。「本当ですか」「本人署名です」「代筆では?」「筆跡照合済みです」「補佐官が机の横で急かした可能性は?」「ダリオ補佐官の添付書によれば、終了一刻前に提出されたとのことです」「余裕がありますね」「前回は四半刻前でした」「改善しています」 セオが向かいの机から顔を出した。「殿下が期限を二回続けて守っただけで、監査局全体が妙に感動していますね」「当然を学び直している途中ですから」「三回守ったら、お祝いしますか」「しません」「即答ですね」「期限を守った者全員を祝っていたら、監査局の予算が菓子代で消えます」「では、心の中で」「それは自由です」 ロザリーが記録用紙へ何か書き込んだ。 リディアは眉を寄せる。「今、何を書きました?」「王国監査官、第二王子殿下の期限内提出を評価。ただし祝賀予算は認めず」「記録しなくて結構です」「既に書きました」 朝から、いつも通りだった。 婚姻して三日。 リディアは社交上、リディア・レイヴァンと呼ばれるようになった。 けれど監査局の机も、書類棚も、仕事の量も変わっていない。 机の右には雨音基金の苦情書。 左には薬草保管箱の検査報
第83話 花嫁、初日に帳簿を開く 新婚初日の朝に花嫁が最初に開くものは、普通なら寝室のカーテンか、夫から贈られた宝石箱であるらしい。 リディアが開いたのは、雨音基金の緊急申請書だった。「北西部、ガルデン村施療院。薬草保管箱十二個のうち七個にひび割れ。乾燥薬草の一部に湿気。原因は納入業者の加工不良、もしくは輸送中の破損……」「リディア」「患者数は一日平均二十六名。冬季は呼吸器疾患が増えるため、保存薬草が使用不能になれば――」「リディア」「聞こえています」「なら、こちらを見ろ」「今、重要なところです」「こちらも重要だ」 低い声に押され、リディアはようやく書面から顔を上げた。 目の前に、湯気を立てる皿が置かれている。 柔らかく焼いた卵。 薄く切った燻製肉。 野菜の入った温かなスープ。 焼きたての小さなパン。 蜂蜜。 どう見ても、重要な書類ではない。「朝食ですね」「見れば分かる」「では、後でいただきます」「今だ」「ギルベルト閣下」「何だ」「新婚初日の朝です」「ああ」「だから、もう少し――」「もう少し?」 リディアは言葉に詰まった。 甘く。 ロマンチックに。 夫婦らしく。 世間なら、そう続けるのだろう。 だが、実際のところ、夫婦らしい朝がどのようなものか、リディアには分からない。 昨夜は婚礼の宴が長引き、レイ
第82話 悪女監査官の婚礼 婚礼の日になっても、リディアの家族は家族らしい顔をすることができなかった。 それでよかった。 無理に笑って、仲のよい家族を演じられるよりは、ずっとよかった。 王宮礼拝堂の控え室で、リディアは鏡の前に立っていた。 白銀の婚礼衣装。 裾には細かな草花と雨粒の刺繍が施されている。その中に紛れるように、王国監査局の章を模した銀糸の意匠が縫い込まれていた。 控えめに。 けれど、探さなくても見つけられる場所に。 本物の監査官章は、胸元の布の内側に留めてある。 肌には触れない。 重くもない。 ただ、そこにある。「お姉様」 背後から呼ばれ、リディアは鏡越しにセレスティナを見た。 妹は淡い青色の礼装を着ていた。 目元が赤い。 泣いたのだろう。 しかし、今日は顔を伏せていなかった。「何ですか」「……きれい」「ありがとうございます」「本当に、きれい」「二度言わなくても聞こえています」「だって、ちゃんと言わないと」 セレスティナは唇を震わせた。「途中で泣いたら、言えなくなるから」「既に泣いているように見えます」「まだです。これは、その、目に入っただけ」「何が?」「いろいろ」「便利なものが入りましたね」 セレスティナは笑おうとして、失敗した。 笑顔と泣き顔の中間になった。 以前なら、リディアは妹が泣き始めた時点で近寄った
第81話 婚礼前夜、あとで考える箱 結婚の前日には、過去を片づけておくべきだと、リディアは思っていた。 誰かに教えられたわけではない。 婚礼作法の本にも、そのような項目はない。 花嫁は入浴を済ませること。 髪を整えること。 衣装と宝飾品を確認すること。 当日の起床時刻を守ること。 誓約文を読み直すこと。 家族への挨拶を済ませること。 どの本にも、未整理の感情を分類しなさいとは書かれていなかった。 それでもリディアは、王宮の客室に用意された小さな机の前で、木箱を開いていた。 箱の蓋には、セオの字で書かれた札が貼られている。『あとで考える箱』 ひどく軽い名前だった。 中身は、まったく軽くない。 父から届いた手紙。 母が救済基金の実務研修について書いた短い報告。 セレスティナから届いた、書き直しだらけの手紙。 ヴェルクレア家の執事長アルマンから送られた近況。 そして、返事を書こうとして書けなかった便箋が三枚。 リディアは最初に、父の手紙を取り出した。『あなたは二十一歳。誕生日は冬至祭の五日前。』 もう何度も読んだ。 それでも読むたび、胸の中の違う場所が痛んだ。 初めて読んだ時は、遅すぎると思った。 二度目は、覚えたのだと思った。 三度目は、なぜ今なのだろうと思った。 四度目は、少し嬉しい自分に腹が立った。 五度目から先は、数えていない。「……分類不能」 リディアは呟いた。 監
第80話 旧貴族派の最後の嫌味 人間は、負けたからといって黙るとは限らない。 むしろ、もう勝てないと分かった人間ほど、最後に嫌味くらいは言って帰ろうとする。 リディアは、そのことを王宮北翼の祝宴広間で学んだ。「まあ。監査官章を身につけた花嫁など、聞いたことがありませんわ」 声は小さかった。 しかし、聞かせるための小声だった。 それは、小声の意味をかなり間違えている。 リディアは手にしていた果実水の杯を置いた。 婚礼まで、あと四日。 本日の祝宴は、ギルベルトとリディアの婚姻を前に、王家主催で開かれた小規模な晩餐会だった。 小規模。 王宮基準である。 出席者は百人を少し超えていた。 リディアに言わせれば、百人を超えた時点で十分に大規模なのだが、王宮では三百人以下は「身内だけのささやかな集まり」に分類されるらしい。 人間の感覚とは、環境で壊れる。「ベルダ侯爵夫人」 リディアは声の主へ顔を向けた。 六十歳を越える老婦人だ。 扇子を持ち、姿勢は美しい。 かつて白羽の会へ何度か名義を貸していたが、直接的な不正への関与は認められなかった。 ただし。 リディアを嫌っている。 これは帳簿を調べなくても分かる。「何か?」 尋ねると、ベルダ侯爵夫人は微笑んだ。「いえ。ただ、時代は変わったものだと思いまして」「そうですね」「以前でしたら、花嫁は夫の家に入る日に、余計な肩書きをいったん置いたものです」 周囲にいた貴婦人たちが、僅かに黙る。 離れる者はいない。
第79話 若い令嬢たちの小さな反乱 リディア・ヴェルクレアは、その日、自分が相談窓口になった覚えはなかった。 本当にない。 王国監査官として任命された。 雨音基金の初年度監査担当になった。 ギルベルト・レイヴァン王弟宰相と婚約した。 婚姻後も職務を継続することを契約書へ明記した。 そこまでは事実だ。 だが。「……なぜ、七人もいるのですか」 王宮東棟の小会議室で、リディアは尋ねた。 目の前には若い令嬢が七人座っている。 年齢は十五歳から二十歳ほど。 全員、緊張している。 そして、その先頭にいるのがエレナ・ローデンだった。 以前、慈善連絡昼餐会でリディアに声をかけた令嬢。 薬草学を学んでおり、婚約後も続けたいと話していた少女だ。「申し訳ありません」 エレナが頭を下げた。「本当は、私一人で伺うつもりだったのです」「では、なぜ七人に?」「話したら、増えました」「増えた」「はい」 リディアは七人を見る。 一人が気まずそうに目を逸らした。 一人は膝の上で拳を握っている。 一人は何か分厚い本を抱えている。 そして一番端の小柄な令嬢は、明らかに泣きそうだった。 ロザリーが淡々と資料を確認する。「相談希望内容を整理しました」「いつの間に?」「先ほど、受付で聴取しました」「早いですね」「必要ですので」 完全にギルベルト







